半介護状態の母親との生活 ピリオドの日

LIFE

いつか来る日 それは突然訪れた

母が亡くなった。

突然の体調異変から、数日後のことだった。

朝起きたときは「おなかがすいた」とおはよう代わりの、いつもの言葉を交わしたのに。

原因は脳出血。

倒れてから数日後に、息を引き取った。

 

こんなご時世だから、病室に入ることも、見舞うことも、付き添いもできない。

 

それでも、病院側の最大限の配慮で、意識のない母のそばにいる時間を設けてもらえた。

呼吸が停止したからとの病院からの電話に病院に駆けつけた時には、すでに心臓は動かなくなっていたけれど、まだ温かい母の手を病室で取ることができた。

前日に個室に移動してくれていたので、遅れて駆けつけた弟とも病室での対面が叶った。

 

母は、看護師さんが様子を見に来ていたちょうどその時に、息を引き取ったのだと言う。

 

母は頑張った 私も頑張った そう思える時間の中で

一度自宅に戻った母と2日間、静かな時間を過ごすことができた。

葬儀はこじんまりとして、でもピンクと紫と白の可愛らしい花々で飾られた祭壇。

母をよく知る人たちと、家族、親族に送られて、母は静かに旅立った。

享年81歳。

人工透析を始めたのが70歳少し前だったから、約12年の透析生活。

その間、元気に出歩けた日々もあったし、具合が悪くなって療養施設に2年入院したり、退院できて自宅から外来通院に切り替わったり、いろんなことがあったよね。

 

最近では老衰の前兆といわれる症状も出始めていたので、覚悟はしていた。

 

食が細くなる

本人はおなかが空いたと言うけれど、少し食べるともう食べられない。

 

眠る時間が長くなる

時々は目を覚ますけれど、12時間近く寝ているのが当たり前となりつつあった。

 

その日がいつ訪れるのかは想像もできなかった。

本人も「いつまで生きるんだろう…」と口にしていたから、覚悟はしていたのだと思う。

ただ、私が仕事などで不在の時に倒れないように、とそれだけを願っていた。

 

母は認知障害もなく、出来ることは自分でやりたがり、トイレはシルバーカーで一人で移動することを心掛けていてくれた。

気丈な母のことだから、あと5年くらいはこのまま頑張っちゃうのかな、なんて思っていた。

母に使う時間を優先させる日々はストレスも多いし、寝付けない夜も日に日に増えてきて大変なんだけど、それでも穏やかに過ぎる時間の中でそう思っていた。

 

ありがとうの言葉

 

振り返れば、後悔だってある。

でも、倒れた時にそばにいて救急車の中でもずっと手をつないでいられたこと。

息を引き取るときもそばで看取ってくれた人がいたこと。

苦しまなかったこと。

 

望んでも、叶わない人はたくさんいる。

母の望んでいた「楽に休ませてね」が叶えられたことは、残された側の心を穏やかに保つ力をくれた。

 

長期入院した時、呼吸が苦しくて入院した時、入院先のベッドから電話をくれたことが2度ほどあった。

「もうだめかもしれない。こんなに苦しいのは初めてだから。今までありがとう。ありがとう」

最期の言葉になるかもしれないからと、苦しい体調の中で電話をくれた。

幸い、その時はひどくならずに落ち着いたけれど、あの時の言葉は心に刻まれていた。

 

「ありがとう」

 

直接は言葉を交わせなかったあの日。

届いていたよ。最期の言葉は、ちゃんと届いていたよ。

お母さん。

 

「ありがとう」